川村学園陶芸部の歴史

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「為すことによって学ぶ」

川村文子先生 川村学園の理念は「感謝の心」と「女性の自覚」ですが、創設者川村文子先生は、よく「為すことによって学ぶ」と実践教育の大切さを強調されていました。
 文子先生は、「知識を教えることのみを目的とせず、知識も技芸も全て人間を造るための手段であり、如何なる境遇に際しても、自分の人間としての本分を生かしていくことができ、社会の一員としての義務を果たしうる人材を育成することを目的とする」と語っています。
 陶芸部は、川村文子先生の「為すことによって学ぶ」の精神を、菊池不二夫先生が、学園教育の現場で実現すべく、1960年に創設されました。

文子先生と菊池先生

川村竹治先生 菊池先生は、戦中に川村竹治先生(文子先生の夫、和歌山、香川、青森県知事、貴族院議員、満鉄総裁、犬養内閣の司法大臣、台湾総督など)が退官後につくられた男子校、川村学院中学校に学び、「誠実」を第一義にした教育を受け、戦中にもかかわらず、一日の大半を英語で過ごすという学校生活を送りました。
 教師となり川村学園小学校教師として赴任。小学校教師の10年間の4、5年は教師をしつつ、文子先生の家に暮らして、秘書的な役割もされました。
 この時期に、文子先生から直接、教育の理想を傾聴し薫陶を受ける機会がありました。文子先生とデューイの教育論を論じ、実践を重んじ、生徒の個性を伸ばす教育を熱く語りあいました。この議論のなかから陶芸部創設の企画が生まれました。文子先生は陶芸がお好きでしたから、生徒たちが陶芸を「為すことによって学ぶ」姿をみれば、お喜びになるとも考えたと菊池先生は、語っています。
 そこで、菊池先生は今戸焼の職人さんに陶芸を習い、指導に自信をつけたところで、文子先生にも勧められ陶芸部を創設しました。集まった部員は、33期(高2)から36期(中2)までの12人でした。その後、益子焼の神谷芳一さん、紀雄さん父子が指導にきてくれました。

最初はレンガで作った窯

川村文子先生 粘土をこね、整形し、素焼き、本焼き。生徒達は菊池先生の指導で、最初は楽焼を楽しみました。初期にはろくろはなく、手びねりで成型。現代のような器具もなく、削りの道具を針金で手作りしたり、工夫を凝らしました。最初の窯は楽焼用で菊池先生がレンガを積み上げてつくりました。
 その後、当時の本部の庭に、神谷先生の指導で高さ2メートルほどの窯ができ、本格的な窯焚きができるようになりました。窯炊きの日、生徒達は暗くなるまで居残りが許され、松の薪をくべて窯を炊きました。夜になると、そのころ多摩美術大学生だった神谷紀雄さんが来てくださり、徹夜の薪入れを引き受けてくれました。
 窯を開くときは、焼き上がりや、釉薬の出方がうまくいった生徒から歓声があがり、窯の出し入れのとき、作品が壊れた生徒は、傍目もはばからず泣きました。
 生徒達は陶芸の魅力に取り憑かれて「毎日が部活動」という状態でした。
 発表の場は、秋の学園祭で、学園祭目指して作品づくりのスケジュールを立てました。
 しだいに、粘土、釉薬、道具も揃えていただきました。ぜいたくですが、七宝焼きにも挑戦させてもらいました。
 その後、部室も道具、釉薬類も充実していき、窯もさまざまに変遷します。電気炉で焼いたり、神谷先生のところの窯を借りたりしていました。1978年に文化学院にガス窯ができ、その後、神谷紀雄先生の手で三芳グランド(現在はない)に石油、薪対応の紫雲窯ができると、焼きの精度はあがり、強度のある作品ができるようになります。そして生徒の作品づくりは多様化、高度化していきました。

第1期生の3人が美術系に進学

 陶芸部創設部員のなかの3人は武蔵野美術短大に進学しました。60代になったいまも陶芸を続けているOGが4人います。また創設期部員のなかには光風会入会の陶芸家、目次登茂子氏、画家、イラストレーターの久世アキ子氏、ノンフィクション作家の小川陽子氏がいます。
 神谷紀雄先生は、川村文化学院で陶芸の講師をされました。東日本伝統工芸展鑑審査委員を務めめられ「和光」「三越本店」で個展を開く、大陶芸家となられました。菊池英代先生(菊池先生の妻。川村小学校教師であり、陶芸部の第1期生、36期を小学校時代に担任された)は七宝作家。日本工芸会正会員となられ、活躍されています。

 ほかにもたくさん、陶芸、そのほかの創作活動をされている陶芸部OGがいると思います。このホームページに作品とお便りを載せてください。

1972〜3年、「高校のすべての教室に花瓶を」のイベント(45〜47期生)

 陶芸部創設から7年ほどしたころ、部員の減少などで休部状態となりますが、45期有志の再開の訴えで、部活動が開始されました。
 45~47期には、神谷先生も認める才能ある部員が多くおり、意気盛んに作品が次々につくられていきました。高校の各クラスに一個ずつ、陶芸部作成の花瓶をプレゼントするという企画が生まれ、1学年7クラスでしたから、その3学年分、計21個の花瓶が焼かれて、教室に飾られました。応接室にも、部員の作品が置かれました。

陶芸経験がもたらす内面への力

 陶芸は土が火で変成し、釉薬は窯で思わぬ窯変を遂げる、という不思議な変成が「美」を作り出す工芸です。作品は芸術作品にもなりますが、もともと陶芸とは、太古の昔から「食」になくてはならない器をつくる、ということから発していますから、暮らしのなかに活かされるのが本来のあり方でしょう。
 陶芸部で作陶することは、暮らしのなかの「美」への感性を磨き、どんな器、皿、壺をつくりあげたいかを企画、設計し、自分の手で成型していく、という作り手の個性を追求する創造作業です。
 その行程は、粘土を練って、造形し、削り、乾かし、素焼き、釉薬作り、本焼き、必要なら窯出しあとの墨入れなどの処理、と幾多の行程を積み上げていかなければなりません。根気と辛抱強さがいります。また、土と格闘するうちに「無心」になるときを経験します。
 思春期に陶芸をすることは、心を耕しつつ、強くする作業ではないか、と考察されます。
 陶芸部卒業生たちは、作陶の楽しみを、その後の人生に活かしていきます。また、人生に苦難が降り掛かっても、辛抱強く耐え、危機を窯変のようなチャンスととらえて、自己を鍛え直して成長していけるのではないでしょうか。

コラム

為すことによって学ぶ__菊池先生の「観察学習・奈良井への旅」

奈良井への旅 増補版 川村高等学校 菊池先生は、長らく地理の教師でしたが、地理の教科でも「為すことによって学ぶ」観察学習を取り入れてきました。1963年から川村学園の寮があった軽井沢近辺などで行なってきた観察学習の成果が、やがて、1973年からの川村高校、高校1年生の地理、地理の観察学習「奈良井への旅」へと結集します。「奈良井への旅」は全校の教師の協力のもとに1973年から1996年にわたって実施され、高校生の本格的フィールドワークの旅として、教育界の話題を呼びました。新宿から甲州街道をへて、笹子、富士見、塩尻、奈良井と、民家の屋根や壁の造作、なりわいや暮らし方を、生徒が調査し発表するという、2泊3日の学習です。
「奈良井への旅」は生徒たちに、地理的な観察力や、歴史や暮らしへの洞察力を育み、生涯の力をつける旅となりました。
 観察学習が始まって4年目に、生徒の論文を掲載した研究誌「奈良井への旅」ができ、以来毎年発行されました。

陶芸部を指導してくださった先生

菊池 不二夫先生
井出 道子先生
遠藤 喬先生
鈴木 敬子先生
宇佐見 陽子先生
関根 教弘先生
半田 美和子先生
川畑 翔一先生

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